王朝美術の継承と変革!

武士の台頭による社会変動が起こった時代。平安時代から続く王朝美術の流れに、新たな中国美術からの刺激が加わりました。

鎌倉時代の始まりは1185年、平氏の滅亡と源頼朝に守護・地頭設置が認められた時が有力です。旧来の貴族勢力が武士という新勢力と接触しつつ変質していく時期で王朝時代の安定した世界が揺らぎ、宮廷政治に携わるものには人徳が求められるようになってきました。その中で貴族が自らのアイデンティティーを改めて確立する必要に迫られていき理想の自己像を表示するため肖像画が隆盛し、現実への関心が高まります。

鎌倉時代は絵巻が大量に作られた時代でもあり、特に現実への関心が高まり宮廷行事を記録した行事絵が盛んに作られました。

肖像画の隆盛!きっかけは承久の乱!

人間そのものへの関心が高まり、自己の姿を表すための手段として貴族たちの間で流行します。
鎌倉時代は、肖像画が隆盛した時代としてよく知られています。
この時代を肖像画の時代とする確実な論拠は、現在は似絵頂相の存在に求められます。

似絵とは小形の紙絵であり、細線重ね描きで顔貌を写し取った肖像画です。
その代表が《後鳥羽天皇像》《随身庭騎絵巻》で、
藤原隆信がこの描法の創始者であり、息子の信実によって完成を見せます。

似絵の活動は貴族が自らの姿を描き見つめるという自省的な視線の中で行われました。その流行の要因は、古代から中世への転換点の中で、承久の乱をきっかけに宮廷は権力基盤が揺らぐことになります。その中で徳治の思想が台頭し、王朝時代の安定した世界が宮廷政治に携わるものには人徳が求められるようになりました。貴族が自らのアイデンティーを改めて確立する必要に迫られていたからであると考えられます。いわば理想の自己像を表示するための器として、似絵という描法の中に自らの身体を投じました。似絵は、当初白描で描かれていることが特色でありその成立において中国の文人肖像画との関連がうかがわせられます。中国文人画における白描は、文人の高潔さを表象する記号であり人徳の表現であったため、白描で自らを描くことによって、徳のある人格であると訴えようとしたものであると考えられます。

頂相とは、本来はけっしてのぞき見ることのぞき見ることのできない崇高な如来の頭頂部の相を指す言葉でしたが、師に対する崇敬の念から、その肖像画(彫刻も含む)をこう呼ぶようになりました。頂相の用途はさまざまですが、最も重要な嗣法(すほう)の証明とされます。

宗教絵画と世俗絵画

禅宗以外の宗教美術では、密教や浄土教など旧仏教の仏画が継続してつくられます。中ではいわゆる来迎図が形式において新展開をみせます。新仏教では、開祖への強い信仰心から絵巻や掛軸の形式で祖始絵伝が盛んにつくられました。浄土信仰の延長にあたる熊野や那智滝、摂関家の信仰篤い春日などの神域を描いた宮曼荼羅もこの時期に発達し、現実を描こうとする鎌倉的傾向を示す風景画としての側面ももち合わせています。また、「美麗」といわれた王朝絵画のもつ華麗な金銀加飾や明るく開放的な画風が後退し、仏菩薩の全身を金一色で飾る皆金色という加飾法が主流となるとともに、彩色も寒色中心となって現実的で冷静な画趣をたたえるようになります。

世俗絵画では、絵巻の制作と教授の場が拡大しました。鎌倉末期においても華美な大重美術の伝統を着実に継承する一方で、彩色を排した白描絵巻も発達を見せ、冷えさびた美意識が目立つようになります。

地獄と極楽

念仏を唱えれば誰でも往生できると説く浄土真宗が支持され、
極楽浄土への憧れが民衆にも広まりました。

神様を描くことは鎌倉時代に始まり、絵師が従来の枠から抜け出し、姿や描き方が決まっていない神仏を仏様の姿で表したり、自然を神体として描くなど表現に工夫を凝らし自由に描き始めた時代でもありました。

《阿弥陀二十五菩薩来迎図》京都・知恩院

流麗な雲の動きによって、往生者のもとへ降臨する阿弥陀如来の
スピード感が表現され、「早来迎」ともよばれています。

《地獄草子》奈良・奈良国立博物館 国宝

平安時代末期から鎌倉時代にかけて巻物の形で盛んに描かれた六道絵のひとつです。
罪人が堕ちる地獄の恐怖が絵師の豊かな想像力によって冷徹に描かれています。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想!

「日本の神様は異国の仏が日本の人々を教化するために仮の姿を現したものである」という本地垂迹説が平安時代後期に大きく発展し、各地の祭神を仏あるいは神の姿で拝することが盛んになりました。こうしたものから、神仏習合思想に基づき本地仏としての意味が込められていれば垂迹美術とされています。われわれの祖先の信仰の様態を考えるうえできわめて重要であるこれらの造形物は、鎌倉・南北朝時代に大きく展開を遂げます。

《那智瀧図》東京・根津美術館 国宝

等身大に及ぶ縦長の画面に一条の瀧を表します。
一見風景画のように見えますが、右下の月輪、下辺の拝殿などの存在から、
飛瀧権現と称するご神体としての那智の滝を描いたものと解釈されます。

《春日宮曼荼羅》奈良・南市町自治会 重要文化財

春日社の景観を俯瞰的な視点で描いた作品です。
優れた画力と密教の曼荼羅の形式を取り入れ神仏を整然と配した垂迹曼荼羅です。

絵仏師

中国・唐の末期に発生した水墨技術が宋から日本に伝えられ、絵仏師たちに影響を与えました。
禅宗では画僧が水墨画を描くなどの新しい表現が根づいていきました。

可翁《竹雀図》大和文華館

日本で描かれた初期の水墨画です。墨の濃淡によって竹の枝葉に変化をつけ、画面に奥行きを感じさせ中国スタイルの表現が見られます。しなやかな竹の枝葉、一本足で立つ雀など、静寂の中の緊張感は禅の境地を表しているようにもみえます。

水墨画は禅宗とともに中国から伝わり、修行の一環としてそれらを模倣した日本の僧侶によって独自の味付けがなされていきました。

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