江戸後期 化政文化(1804~1830年頃)
江戸時代後期は19世紀、11代将軍・徳川家斉在位中から1867年の15代将軍・徳川慶喜の大政奉還まで、長く鎖国状態にあった日本が激動した時期。こうした一方で出版市場は拡大し、蘭学や諸技術の実用化も進み、活気をあらわしました。
日本絵画の最大の特徴は、庶民的なジャンルが発達したこと。東海道の宿駅、大津でみやげとして売られた素朴な大津絵や、端午の節句に子どもの成長を祈って掲げられた洗練されたデザインの幟旗、そして菱川師宣らに始まる浮世絵版画です。
酒井抱一
尾形光琳を尊敬し、狩野派や土佐派、円山派、若冲風、浮世絵などさまざまな画風を取り込み、写実的で洗練された画風の独自路線を確立しました。
光琳の「風神雷神図屏風」は模写に模写を重ね、光琳の百回忌も執り行いました。
酒井抱一とその弟子鈴木基一の系譜を、江戸琳派といいます。
20代の抱一は、歌川豊春に師事してそれと酷似した美人画を、浮世絵師顔負けの出来で描き、さらに遊郭や料亭で繰り広げられた住時の文化人サークルで、俳諧や狂歌などにも高いレベルの作品を残しています。
《夏秋草図屏風》東京・東京国立美術館蔵 重要文化財
光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれた抱一の代表作です。
雷神が降らせた雨にぬれる夏草と、風神が起こした風にゆれる秋草が表裏のテーマが対になっています。金地の屏風の裏に銀地を用いたのは、京都の「雅」に対し、琳派が継承された江戸の「粋」を示したものとされ、クールで研ぎ澄まされたデザイン性が感じられます。京都から江戸へ琳派の移行を示す重要作です。
浮世絵
挿絵入りの浮世本(現実的で享楽的なストーリーが特徴の、庶民向け小説)や庶民の娯楽情報などを発信する版元が当時急速に普及していく中、一枚摺りの絵として売り出したことで大ブレークしました。それから約100年後の1765年ごろ多色摺りが開発されます。きっかけは絵暦と呼ばれるカレンダーの趣向を競い合う趣味の人たちの間で絵暦交換会が大流行したことでした。より美しい絵暦の研究開発のメンバーの中にいた鈴木晴信と職人たちはきらびやかな多色摺りによる極彩色版画を完成させます。
墨一色から始まり手彩色の時代を経て、
10色以上の多色刷りの精巧な彩色摺りによる美しい木版画を「錦絵」と呼びます。
江戸時代初期に活動した菱川師宣は、肉筆画の《見返り美人》の作者ですが「浮世絵の祖」としても有名です。版本の挿絵の仕事を得て頭角を現した師宣は、当時ヒットした吉原や歌舞伎のガイドブックや好色本の挿絵を一枚摺りの一枚絵として人気になった際、墨一色、もしくは墨摺りに手彩色を施して版画としての浮世絵を確立しました。
風俗画の一種というべき浮世絵は、美人画と歌舞伎役者絵を二大テーマとしていました。
喜多川歌麿
町で評判の娘や女房たちを、「大首絵」とよばれる
人物の上半身をアップで描くスタイルで描いて人気を博しました。
東洲斎写楽
版元の蔦屋重三郎によって発掘された浮世絵師のひとりです。役者の大首絵でデビューしましたが、役者を美化しなかったため賛否両論が激しく歌舞伎ファンからブーイングを受けることになりました。
19世紀に入ると武者絵や名所絵など、それまでマイナーな主題であったものが
人気商品として絵草子屋(当時の出版社兼書店)の店頭を占めるようになります。
葛飾北斎
生涯現役を貫いた北斎は、89歳で亡くなる直前まで約70年にわたって絵を描き続け、
錦絵以外にも版元の挿絵や肉筆画などでも活躍しました。
西洋の遠近法を取り入れつつ、デフォルトや平面化をほどこして
自然風景をデザイン化して描いた『富嶽三十六景』はとても有名です。
輸入顔料であり世界初の合成顔料・プルシアンブルーを使いこなしているのも特徴です。
歌川広重
15歳で歌川豊広に入門した広重は、
習作期に役者絵や美人画を多く描いて腕を磨き、浮世絵師としての活動をスタートします。
構図やモチーフの選択に工夫をこらし、季節や時間の変化なども画面に取り込み、東海道の宿場の風景を描いた『東海道五十三次』や、抒情的な表現と観る者の想像を駆り立てるおもしろい視点の構図が冴えわたる『名所江戸百景』が有名です。
葛飾北斎・歌川広重も、西洋の画家に大きな影響を与えました。