再び首都としてよみがえる京都!

足利尊氏の将軍就任から足利義昭が京都を追放されるまで約230年間にわたって存続し、その初期は南北朝時代と末期は戦国時代と重なります。

鎌倉時代には武家が鎌倉、公家が京都を本拠として二つの都が分離していましたが、室町幕府が京都に武家政権を開くと美術も京都を中心に展開していきます。平安時代から京都に温存されていた貴族文化は、幕府の豊かな経済力を背景に息を吹き返し、東アジアの国際交流を通じて輸入された中国美術は権力者の美意識を刺激しました。
これらのことから、古典文化と舶来の文物が京都に集中することにより
異質な価値が並行し複合されました。

鎌倉時代以降、数多くの禅僧が日中間を往来し、禅宗寺院は中国文化を受け入れる窓口となってきました。15世紀初頭には室町幕府が保護した京都五山の禅院を中心に禅宗と一緒に伝わった水墨画の制作が室町将軍の周りで花開き、徐々に日本風に変化していき盛んになります。

雪舟

相国寺で文周に学び、初期の作例はその影響下にあります。
1467年、明に渡って現地の絵画に学びました。

《四季山水図》(山水長巻、部分)山口・毛利博物館蔵 国宝

約16メートルの画巻に春夏秋冬の山水を展開します。
将軍家には夏珪の山水図が秘蔵されており、その影響をうかがわせます。

《天橋立図》雪舟 京都・京都国立博物館蔵 国宝

古代より文殊信仰と歌枕で著名な丹後の名勝を描いています。雪舟は大内氏のお抱え絵師で他国の情報を絵で伝える役目も担っていました。情報収集のために現地を歩いてスケッチを重ね、それらを統合することで、はるか上空から一望するかのような風景画を完成させました。それまでの山水画は見たこともない中国の風景を描いていましたが、日本の風景を水墨画で描いたところが評価されています。

日本の絵画史は外からの刺激を受けて変容を続けた歴史です。ただ、新しいスタイルが輸入されても、それまでのスタイルを捨て去ることはありませんでした。

狩野派は室町時代から幕末まで続いた日本画の一大流派で、始祖は室町幕府御用絵師の狩野正信です。狩野正信は中国の水墨画手本にした漢画を主として、息子の元信の代に漢画とやまと絵を統合した一派の様式が確立しました。 

そのやまと絵は、日本独特の情景や表現が診られる絵画で、文化の多様化が進んだ平安時代に誕生し唐絵に対する概念として用いられました。屏風や絵巻物などに盛んに描かれ、室町時代以降は宮廷絵師を世襲する土佐派に受け継がれました。

《日月山水図屏風》大阪・金剛寺蔵 重要文化財

密教の後継者が受ける「灌頂(かんじょう)」という儀式に使われたとされています。
6曲1双の中央に荒波、周囲を山が取り囲み、右隻に太陽、左隻に月が金銀箔で描かれ、
春夏秋冬が循環する構図になっています。
野趣あふれる造形感覚は、自由な表現を得意とする日本画そのものの魅力が凝縮されています。

職業絵師集団誕生!

土佐派の誕生!

南北朝動乱の京都で、やまと絵の新たな流派が誕生したのが藤原行光を祖とする土佐派です。室町末期にいたる200年以上、将軍家や朝廷、公家や有力寺社のもとめに応じて絵画を制作し、やまと絵師の頂点に君臨し、歴代将軍と密接な関係を築くことで発展していきます。藤原行光の工房の一つに居たのが土佐行広です。そして色彩と形態の調和した土佐行広の様式は土佐派の基盤となり、15世紀中期以降も土佐広周も土佐光信によって継承されます。

土佐光信 《清水縁起絵巻》東京国立博物館蔵 重要文化財

8世紀末、平安京遷都と同時に開創された清水寺の歴史を描いています。図は蝦夷と坂上田村麻呂の軍勢が、清水寺の観音が遣わした雷神の助力で勝利する場面です。最晩年の土佐光信による枯淡な画風が基調ですが、一部の段に光茂の明快な表現が併存しています。

土佐光茂 《桑実寺縁起絵巻》滋賀・桑実寺蔵 重要文化財

流浪の将軍・足利義晴が身を寄せていた近江・桑実寺の草創を描いています。光茂は琵琶湖岸の実景に取材し、絵巻の横長画面に大パノラマを展開しています。的確な空間把握と華美な彩色が際立っています。

狩野派の興隆!

狩野正信は応仁の乱の直前に登場しました。正信は混乱期の京都で頭角を現し、将軍家の御用絵師を務めるまでに成長しました。制作は幅広く、足利義正の東山殿では中国の景勝地や仏画などを描きました。

《周茂叔愛蓮図》九州国立博物館蔵 国宝

蓮を愛した宋代の文人を描いています。柳の明晰な形態と淡い色彩により、すがすがしい空気と奥行きのある空間が表現され、後の狩野派絵画の基調がよく表れています。

狩野元信

正信の長男。やまと絵の中に水墨画の堅固な構図と力強い墨線を導入し、水墨画の中にやまと絵の華麗な彩色を採り入れて、和と漢の融合を試みました。また、水墨表現の硬軟や濃淡を秩序づけ、大人数の工房で大量制作するシステムを構築しました。

こうして、乱後の復興気運に乗じ京都に勢力をのばす商工業者や、急成長する浄土真宗の石山本願寺など、新しい支持層の需要に応えました。和漢融合と工房制作を基盤とする狩野派がここに確立しました。

《釈迦堂縁起絵巻》京都・清水寺蔵 重要文化財

清涼寺釈迦如来にまつわる霊験を描いています。
宋元画の対角線構図や墨の鋭い輪郭を積極的に導入することで、
絵巻でも和漢融合をはたしています。

金閣の建立!

京都は応仁の乱で戦場となったため荒廃し、それまで在京していた大名は多くが領国に下向してしまい人口が減少、やがて公家と武家が住む上京、商工業者が住む下京、という二つの核に分裂しました。

室町幕府は、三代将軍足利義満の時代に最盛期を迎えます。義満は武家の棟梁であると同時に公家としても最高にのぼり詰めた人物です。そんな義満自身の権力と栄華を象徴しているのが金閣です。金閣は、義満が造営した北殿の一角で、義満は将軍を辞めてからも実権を譲らず、北山殿で政治を行いました。金閣は貴族の館の特徴である寝殿造と、武家の館を象徴する禅宗様が結合した構造で、観音、阿弥陀三尊、二十五菩薩を安置しました。金閣と橋で結ばれた天鏡閣の接客空間では唐物を展示し、庭園・建築・美術が一体となって義満の強大な権力を象徴しました。

銀閣の建立!

室町幕府八代将軍足利義政の時代、土一揆が相次ぎ、さらには飢饉が諸国に蔓延するなど、不安な社会情勢にあいました。それに追い打ちをかけたのが、1467(応仁元)年に勃発した応仁の乱でした。応仁の乱をきっかけとして幕府は衰退に転じ、地方では裕福な商工業者が台頭します。そのような状況下、自らの隠居場所として義政が築いたのが、東山殿、現在の慈照寺銀閣です。銀閣は正式には観音殿と呼ばれ、観音像を祀っています。仏にすがることで平穏を求めようとしたのかもしれません。

京都の復興!

16世紀初頭になると復興が進み、乱で中断されていた祇園祭は1500年に復活します。
寺社の復興も進み、仏像や縁起絵巻の制作が盛んに行われました。

《洛中洛外図屏風》千葉・国立歴史民俗博物館蔵 重要文化財

16世紀前半に描かれた現存最古の作例で、部分の描写を無理なく統合し、巨大な風景画として成立させる手法は、雪舟の《天橋立図》とも共通します。土佐光信が創始した図様に基づいており、やがて狩野永徳による上杉本へと展開していきます。

*上杉本……狩野永徳の若年期の代表作《洛中洛外図屏風》の通称

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