1603年徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いて以降徳川家が将軍職を勤め、
1867年に大政奉還されるまでの260年にわたり江戸時代は続きました。

1615年大阪夏の陣以降は、戦のない平和な天下泰平の時代。
幕府は海外との貿易を推奨していましたが、キリスト教の布教を警戒して
オランダ・中国・朝鮮以外との交渉を閉ざす、鎖国と呼ばれる体制をとります。
この中で江戸美術は成熟され開花していきます。

ここでは主に17世紀を前期、18世紀を中期、19世紀を後期として見ていきます。

京狩野派

京都に残った狩野派の系統。主に貴族や寺社からの依頼をこなしました。
狩野永徳の弟子・狩野山楽から始まり、
1616年大阪夏の陣をきっかけに九条家を頼って大阪から京都に移動。
九条家と関係を保ちながら、絵師として10代の狩野永祥まで続きました。

江戸狩野

室町時代から権力者の周辺で仕事をしていた狩野派は、
幕府が江戸に開かれたのに伴い、拠点を京都から江戸に移しました。
狩野永徳の長男・狩野光信が亡くなったあと、
当主を失った狩野一門の一人・狩野探幽は1617年に江戸に移り幕府の絵師となり、
血縁と師弟関係に基づいた体制を作りました。

琳派

江戸時代に活躍した絵師たち。デザイン的な構図などが特徴。

御用絵師と街絵師

御用絵師…江戸時代における幕府や大名のお抱え絵師。
街絵師…支配層に仕えない絵師。

前期 元禄文化(1688~1707年頃)

1615年の大阪夏の陣で幕藩体制は固まっていきましたが、政治体制の変化が直ちに文化に反映するわけではなく、戦国の世の中を背景に絢爛豪華・迫力満点の絵が求められた桃山美術の影響が強い作品も多く残り、貴族らしい洗練された構図と大胆なデザイン性が目立ちます。建築では装飾性を追及した日光東照宮や高度に洗練された桂離宮が有名で、上層階級のための洗練された絵は裕福な町人層にまで鑑賞者を広げながら一層洗練されてゆきます。

幕府や大名関係の大きな仕事を引き受け勢いに乗る江戸狩野派と、京都に残り貴族や寺社の仕事を受けた京狩野派。同じ狩野派の直系でありながら、両派の間には格差がありました。江戸に幕府が開かれたものの、江戸時代前期に注目される作品を残したのは以前からの文化を引き継ぐ京都の画家たちでした。そして室町時代から権力者周辺で仕事をしてきた狩野派は、幕府が江戸に開かれたのに伴い活動拠点を京都から江戸に移し、幕藩体制に対応した組織の再編と多数の門人を育てるための教育システムをつくるなど社会的な地位を固めていきました。

1657年の明暦の大火を境に大きく様変わりし全国から人々が集まってきます。
その需要に応えたのが安価な版本や版画であり、のちの浮世絵につながっていきます。
1654年には黄檗僧の隠元が長崎に渡来し、中国最新モードの文化が広まりました。
また肥前有田では日本最初の陶磁器が作られ、
伊万里・柿右衛門・鍋島が派生し大量の色絵磁器がヨーロッパに向けて輸出されます。

俵屋宗達

京都で扇などを売る絵屋「俵屋」を経営し、裕福な町民層を相手にセンスを磨きました。
本阿弥光悦との合作が多く、水墨画や障壁画、屏風絵に力を入れていたようです。
斬新な発想でやまと絵の魅力を高めました。

《風神雷神図屏風》京都・建仁寺(京都国立博物館寄託) 国宝

大胆な余白の取り方、金地に映える色使い、
「たらし込み」《宗達の発案》の手法など高度なデザイン性が発揮され、
構図を工夫した平面的な描き方にやまと絵の伝統も感じられます。
尾形光琳らが模写しました。

狩野探幽(御用絵師)

京都で生まれ16歳で江戸に下り、江戸狩野の礎を築きました。
時代にあった画風を模索し、以前の狩野派の画風を一変させ
瀟洒(しょうしゃ)で淡白な画面枠を重視し余白の中に詩情を盛り込んだ
「探幽様式」と呼ばれる独自表現を確立、江戸絵画の基調を作りました。

《雪中梅竹遊禽図襖》名古屋城 重要文化財

叙情をはらむ余白を重視し、安定感のある構図を意識した作品です。
モチーフが断片的にしか描かれていなくても、薄墨と画面地の間に
やわらかい光を帯びた深く潤いに満ちた景観が立ち上がってきます。

狩野山雪(京絵師)

京都に残り貴族や寺社の仕事を受けた京狩野。
斜陽の道を辿りながらも濃厚な画風を打ち立て、京都の町で制作を続けます。

《雪汀水禽図屏風》個人蔵 重要文化財

こってりとした濃厚な描き込みに盛り上げられた銀の波、
多種の砂子と切箔と金銀を多用した工芸的な技法もみられ、
その徹底した描写には作画への情熱が感じられます。

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